三代目社長のあゆみ 第3話 〜曳家との出会い〜

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料理に感動を覚える日々を過ごしながら世の常識を少しづつ学び、いろんなことに興味が芽生え始めた小学生時代。

欲しいものは自分で働いて買え!』というスタイルだった我が家では、当然ながら誕生日やクリスマス以外でおもちゃなんて買ってもらえず、ミニ四駆を買いたくても小遣いが足りない。

ではどうするか?
働くしかない!

昔は日曜が休みではなく雨が降ったら休みというのが基本だった建設業の世界。
日曜日の朝から眠気と闘いながら現場のお手伝いをしていました。
主に置き場の散らばった材料の片づけや現場の片づけ、掃除、雑用。

当時から落ち着きがなくジッとしていることが苦手だった仁少年。一日中家にいても平気な兄貴とは真逆の性格で、家にいても楽しく無いので必然的に現場に行く機会が多かったです。

暇があれば現場をチョロチョロとうろついていました。
そんな中で何気なく見ていた『家が動く』という事実。

男の子ですから車やバイク、飛行機等何でも動くもの大好きです。
家が動くのもいつもワクワクしながら眺めていました。
その当時は曳家業者も多かったので、頻繁に曳家がありました。鹿児島市内の曳家業者で組合を作り、運動会なども開催するほどの盛り上がりがあったとは今では考えられませんよね。

今から20年以上前の話ですね。
ちょうど谷山・慈眼寺の区画整理が盛んだったころです。
ありとあらゆるところで家が動いていました。
その当時、区画整理の街づくりにおいて曳家は必要不可欠なものでした。

現在のように油圧機材が豊富ではなく、ジャッキアップは手動の油圧ジャッキで行っていたため、どうしても人手が必要です。下請けの協力業者等に応援をもらい、10人以上でジャッキアップを行っていたのを覚えています。

ジャッキアップ、移動、ジャッキダウンはちょっとしたお祭り騒ぎでした。

そんな中、『うちの会社が曳家では一番だ!他の会社に負けるもんか!俺も将来自分の力で家を動かしてやる!この会社は俺が継いで大きくする』という感情が芽生え始めました。しかし現場に出ないときはやっぱりコックさんになりたい。子供ながらに夢の追っかけっこをしてましたね。

次第に時は流れ、技術の進歩と機材の進化により、油圧集中制御システムのおかげでだいぶ曳家の仕事も人数がいらなくなりました。

でも悲しいことに技術の進化とは反比例して曳家の仕事は減っていき、業者もどんどん減っていきました。今となっては鹿児島市内では実質2社まで減ってしまいました。
皆さんが家が動くのを見たことが無いという理由の一つには鹿児島市内での曳家の対象物件減少と技術進化で工期が短縮された事も要因の一つだと思います。

ですが今現在も家は動き続けています。

区画整理区域の吉野町、川上町、いちき串木野市、東市来町などなど曳家を利用した街づくりを行っていますので機会があれば是非一度ご覧ください!

面白い仕事ですよ(^^)

三代目社長のあゆみ 第2話 〜子供の頃の夢〜

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小学生時代の祖父との約束を果たし今でこそ稼業を継いだ私ですが、いろいろと夢の寄り道もありました。

まずは幼稚園時代、コックさんになりたかったのを覚えています。

幼い記憶ながら、初めて中華料理屋さんで見たものすごい火力で豪快に中華鍋から舞い上がる料理に心躍りました。

陳建一

 

 

『カッコイイ・・・あんなに豪快に料理が作れるようになりたい!』↑こんな感じ

 

思い起こせばこれが最初の夢かもしれません。

しかも大のラーメン好き!自分で作れば食べ放題!

この頃から食いしん坊精神満載です(笑)

 

『俺はコックになる!しかも中華料理の店を作ってラーメンマンよりおいしいラーメンを作ってやる!』
ままごと遊びでも普通男の子はお父さん役かお兄さん役ですが、なぜか僕はコックさんでしたw
幼いながら料理を作る喜びを覚え、小学生になってから包丁が扱えるようになり、日曜日の朝は一人早起きして野菜炒めや玉子焼きを作り一人で勝手に朝食を済ませてみたり、スナック菓子やケーキなどのおやつがあまり用意されていなかった我が家では、学校から帰ってきては玉子焼きやフライパンで作る日清やきそば、チャーハンなどを自分で作って食べていました。
それが幼少期からの肥満体型の源でもあります。
何より料理を作る行為が楽しくて仕方なかったのです。そしてそれを食べた人が「美味しい!」といえば、もっと美味しいものをつくろうと研究していました。
『自分が楽しんでさらに自分の作った料理で人が喜んでくれるなら俺の仕事はコックさんしかない!会社はお兄ちゃんが長男なんだから継ぐだろうし、僕は料理人になってお店を持とう』という夢を持つようになっていきました。
まあ、小学生の夢なんて強い決意ではなく潜在的な感覚ですのでブレはあります。
うちのクラスには総理大臣になるといった友人が何人いたでしょうか。
他にもパイロット、プロ野球選手などなど。子供のころの夢というのはその時の環境や、興味のある事、流行に左右されますよね。
これはある程度大きくなっても変わらず、高校生くらいまでそうなのではないでしょうか?
遊びに夢中になりながら現実にも目を向けて進路を決めていかなければならなくなり、その中で本当に自分が何がしたいのか?
逆に何が出来るのか?
そんな思いの中、今の自分にたどり着きます。
なぜ自分は今の仕事をすることになったのか?

皆さんも自分の原点を思い起こしてみては?
つづく。

三代目社長のあゆみ 第1話 〜プロローグ〜

みなさんこんにちは。株式会社 大城 三代目社長の大城 仁です。このブログでは三代目社長の生い立ちや日常を綴っていきます。暇つぶし程度にご覧ください!

第一話 〜プロローグ〜

時は1978年3月3日
鹿児島市下荒田にて父:新一、母:良子の元に大城家の次男としてこの世に生を受けました。

簡単な略歴を書くと

共研幼稚園➡︎八幡小学校➡︎天保山中学校➡︎鹿児島工業高校(建設技術系)➡︎九州共立大学➡︎(株)大城と、鹿児島で生まれ育ち、大学で北九州八幡西区へ4年間行き、また鹿児島で過ごすという人生です。

そんな三代目の父方の祖父:次郎は沖縄県島尻郡伊平屋島生まれ。

 

伊平屋島ってどこ???access_02

ここです。沖縄本島の北部に位置します。
海外出兵後日本へ戻り、戦後の混乱の中鹿児島の地で曳家を学び、独立開業し、鹿児島に家族を持ちました。

 

 

 

三代目は沖縄系鹿児島人なのです。実はクォーターなのです!(沖縄のw)

 

 

 

鹿児島では珍しい【大城】という苗字ですが、そもそも【大城】という苗字は沖縄ではスタンダードな苗字。

本土でいう田中さんや小林さんみたいなもんです。

 

 

 

そんな大城家の次男として生まれた仁少年は幼少期より稼業が曳家を中心とした建設業を営んでおり、物心ついた頃より『家は動くもの』という認識を持っていました。

小学生時代から日曜日や祭日には ジャージを着て現場や置き場の片づけをしながら、家が動くのを見てきました。何の疑問もなく。

成長をするにつれ、世の常識を少しづつ学び、

『普通は家は動かないものだ』と知り、衝撃を受ました。

『だってうちの社員は簡単に家を動かしてるよ?』

でもそれは普通ではない。

人ができない事をやっている会社なんだと自覚し始め、特殊事業という観点に魅せられ、『この会社は俺が継いで大きくする』と小学生時代に創業者である祖父:次郎と約束しました。

子供の言い出すことですからあまり深くは考えていなかったことなのですが、創業者である祖父:次郎は 「おお、そうか。お前が継いでくれるか。じゃあ大城組(当時の社名)も安泰だな!」と笑って頭を撫でてくれたのを覚えています。

あの時の約束が現実となり、次男である私がまさかその時の約束を果たす事になるとは・・・

つづく