2016.08.22

三代目社長のあゆみ 第3話 〜曳家との出会い〜

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料理に感動を覚える日々を過ごしながら世の常識を少しづつ学び、いろんなことに興味が芽生え始めた小学生時代。

欲しいものは自分で働いて買え!』というスタイルだった我が家では、当然ながら誕生日やクリスマス以外でおもちゃなんて買ってもらえず、ミニ四駆を買いたくても小遣いが足りない。

ではどうするか?
働くしかない!

昔は日曜が休みではなく雨が降ったら休みというのが基本だった建設業の世界。
日曜日の朝から眠気と闘いながら現場のお手伝いをしていました。
主に置き場の散らばった材料の片づけや現場の片づけ、掃除、雑用。

当時から落ち着きがなくジッとしていることが苦手だった仁少年。一日中家にいても平気な兄貴とは真逆の性格で、家にいても楽しく無いので必然的に現場に行く機会が多かったです。

暇があれば現場をチョロチョロとうろついていました。
そんな中で何気なく見ていた『家が動く』という事実。

男の子ですから車やバイク、飛行機等何でも動くもの大好きです。
家が動くのもいつもワクワクしながら眺めていました。
その当時は曳家業者も多かったので、頻繁に曳家がありました。鹿児島市内の曳家業者で組合を作り、運動会なども開催するほどの盛り上がりがあったとは今では考えられませんよね。

今から20年以上前の話ですね。
ちょうど谷山・慈眼寺の区画整理が盛んだったころです。
ありとあらゆるところで家が動いていました。
その当時、区画整理の街づくりにおいて曳家は必要不可欠なものでした。

現在のように油圧機材が豊富ではなく、ジャッキアップは手動の油圧ジャッキで行っていたため、どうしても人手が必要です。下請けの協力業者等に応援をもらい、10人以上でジャッキアップを行っていたのを覚えています。

ジャッキアップ、移動、ジャッキダウンはちょっとしたお祭り騒ぎでした。

そんな中、『うちの会社が曳家では一番だ!他の会社に負けるもんか!俺も将来自分の力で家を動かしてやる!この会社は俺が継いで大きくする』という感情が芽生え始めました。しかし現場に出ないときはやっぱりコックさんになりたい。子供ながらに夢の追っかけっこをしてましたね。

次第に時は流れ、技術の進歩と機材の進化により、油圧集中制御システムのおかげでだいぶ曳家の仕事も人数がいらなくなりました。

でも悲しいことに技術の進化とは反比例して曳家の仕事は減っていき、業者もどんどん減っていきました。今となっては鹿児島市内では実質2社まで減ってしまいました。
皆さんが家が動くのを見たことが無いという理由の一つには鹿児島市内での曳家の対象物件減少と技術進化で工期が短縮された事も要因の一つだと思います。

ですが今現在も家は動き続けています。

区画整理区域の吉野町、川上町、いちき串木野市、東市来町などなど曳家を利用した街づくりを行っていますので機会があれば是非一度ご覧ください!

面白い仕事ですよ(^^)

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