リノベーションで繋がりまくる縁(2)

続編です。前回の話はコチラ

リノベーション業界のトップランナーである[blue studio]。

その社長にして幻の存在【大地山社長】

懇親会終わりからの二次会にてBARでウイスキーを嗜みながらお隣の席でいろいろお話させていただきました。

大地山社長は本当に紳士的で、吸い込まれるような魅力の持ち主です。

こんな私に対しても丁寧な言葉遣いでまるで女性を扱うように優しく接してくださいます。

いろいろお話を伺う中で、一言一言アドバイスが的確。洞察力が凄すぎます。

また一人、憧れの人ができました。きっとこの人の元で働く事は幸せな事なんだと思わせてくれるような理想的な社長でした。

書き始めたら切りがないので、リノベ関係者のみなさん、是非お会いできる機会を得たら大地山社長の魅力に吸い込まれてみてください。

さて、鹿屋でお世話になってる大隅家守舎の小林さん経営の【ホテルこばやし】で大地山社長と時間を忘れるような有意義な朝食時間を過ごし、チェックアウトして一路【志布志市志布志町志布志】へ。

本業の沈下修正の打ち合わせです。

お客様と設計事務所に沈下修正の工法説明と見積もり説明を行い、熊本へGO!

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目的地は熊本市の明治初期の1877年に作られた酒屋の醸造所をリノベーションした【早川倉庫】

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8月30日は私も所属させていただいている【リノベーション住宅推進協議会】のセミナー兼拡大イベントが開催されていました。

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明治時代より受け継がれてきたこの空間で新しい空間を提案するプレゼン。

とても素敵な時間でした。

そしてもう一つ、私が所属し期活動させていただいているホームインスペクターズ協会九州部会を代表して熊本のアールハウジング代表、上田部会長によるホームインスペクションのセミナー。

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リノベーションを行うその前に、家を調べる【ホームインスペクション】の重要性をお話しました。

セミナー終了後は熊本市内を一望できる

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にて懇親会でいろんな人とお会いし、また新たなご縁が繋がりました。

残念ながらみんな夜景は見ずにグラスばっかり見てましたがw

その後熊本の昔からの歴史をつなぐ【古町えりあ】にある【熊本情報卸問屋 上村元三商店】へ。

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店内満席のため、外にテーブルを出し、外飲み開始。

キャンドルに癒されながら天草の焼酎をいただきました。

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話題はもちろんリノベーションとホームインスペクション。

同じ志を持つ仲間同士、親睦を図りながら刺激を与え合うとても有意義な時間を過ごしました。

復興が進む熊本ですが、店頭には応援メッセージと非常用防災グッズ。IMG_9329

1日も早い復興を願います。

脳みそ刺激ビンビンな2日間を過ごし、一夜明けてからは熊本が誇るスターリノベプレイヤー【中川正太郎】さんの会社【ASTER】を念願の直撃訪問。

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熊本の大地震で受けた被害を克服し、リニューアルしたOFFICEは、まーオサレ。

見せ方から照明から小物やらなんやらいちいちオサレ。

『やっとリノベーション会社みたいな打ち合わせスペースできたんすよw』と中川氏。

ウラヤマシス。。。

『うちの会社も一度ぶっ壊してやり換えてやろうか!』と思うくらい素敵な空間でした。

中川さんといろんな話をしました。今後の熊本と鹿児島の展望を共有し、ビジネスマッチングも含めて良い話ができました。

その中でも本日一番の収穫は

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ホワイトボードペイント。

黒板塗料は今流行りですが、なんとホワイトボードペイント。

壁にどこでもマーカーで書き書きしてスポンジで消せる。

これはよろしい。でもお値段がよろしくないw

でも材料仕入れてどこか塗ってやろうと心に決めた38歳の夏。

あっという間の楽しい時間を過ごし、またまた本業の曳家の現調打ち合わせを終え、鹿児島へ。

 

行く先々でいろんな方と出会い、刺激を受け、学びがあります。

 

このインプットしたいろんなものを活かし、鹿児島のリノベーション業界、ホームインスペクション業界を盛り上げていきます。

お世話になった方々、ありがとうございました!

おわり。

 

リノベーションで繋がる縁 (1)

ども。僕です。
更新サボってました。というのも、出張でなかなかPC開く時間がなく、ブログ更新できませんでした。

さて、月曜日の仕事を終え、PM8:30に鹿児島空港へ。

 

何しに?

 

あの人を迎えに。
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大隅の畜産業【上別府みゆき】さんの育てた特製黒毛和牛フィレステーキ4000円を食らいにわざわざ鹿児島まで来た閣下こと、リノベーション業界の超トップランナー【blue studio】の大島芳彦専務をお迎えに。

ちょうど翌朝に志布志での打ち合わせがあった私は、迷わず空港からの鹿屋へ行くことを決めました。

当初は大島さんと連絡取り合い、大島さんだけ迎えに行く予定でしたが、台風の影響で火曜日の朝のフライトが怪しい。ということで他に3名が前乗りで来鹿するとの話になり、

 

なんと!

 

「実は都市伝説でこの世に存在しないんじゃないか?」
「存在自体が幻?」
「ツチノコと同じくらい遭遇することのない人?」

 

と世間で噂される[blue stdio]の代表でらっしゃいます、【大地山社長】も来鹿!

一般の人にはわかりにくいかと思いますが、本当にすごいことなんですよ。大地山社長と遭遇することって。超絶レア。

さらに大地山社長と大島専務と共に [blue stdio]を作り上げてきた石井さんも来鹿。

さらにさらに、川崎市のとんでもなくカッコイイホテル【ON THE MARKS】を手がける[UDS]の吉岡さんまでも。

豪華すぎる4名をお連れして、一路鹿屋へ。この移動中に車内で日本のリノベーション業界のトップランナーと会話ができるんですよ。

なんて贅沢なんでしょう。

世間話から自分の仕事の話、いま迷っていることへのアドバイスなどをいただきながら、鹿屋へ到着。
鹿屋でリノベーションまちづくりを手がける【大隅家守舎】と合流。

築100年を超える蔵をリノベーションしたワインバー【英蔵】へ。

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鹿屋で進行中の大型プロジェクトの戦略会議のために集まった[blue stdio]×[大隅家守舎]×[UDS]+部外者一名という構成で懇親会スタート。

いろんな話ができました。

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こうやって鹿児島市の田舎もんが東京のいや、日本のリノベーション業界のトップランナーと肩を並べて飲めるなんて、通常ありえないことなんですよ。

 

これもリノベーションが繋いだご縁。

 

大地山社長とは翌朝の朝食までご一緒させていただき、とてもためになるお話をいただきました。

 

続きは次話で。

三代目社長のあゆみ 第11話 〜趣味に目覚める 車イジリ編~

社長ブログをご覧いただきありがとうございます。前回のお話【第10話】はコチラ

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さて、無事に鹿児島へ戻り曳家職人としての道を歩みだし、社会人生活にも慣れてきた頃。

やっぱりくるんですね。

お誘いが。

ラグビーの。

当時、社会人リーグの1部のチームに鹿児島工業高校ラグビー部の先輩たちも多数属していました。

当時甲南クラブという強豪チームに所属する先輩から

「鹿児島帰ってきたならラグビーせんか!」とプレッシャー。

「もう一年以上まともに動いてないので走れないっすよ。」と僕。

そんな僕に大先輩のサラッと一言。

『大丈夫。走り込みから始めるから。』

『・・・・・。。。』

鬼だ。なぜ大人になってまで趣味で走りこみせねばならん。

いやだ。キツイの嫌だ。怒られるの嫌だ。怖いよー。。。

高校でお腹いっぱいになたラグビーを大学でも4年間やり、本当にお腹いっぱいだった僕はもうラグビーをするつもりは全く持ってありませんでした!

なんとか鬼のような大先輩の誘いをマタドールのように華麗にかわし、1部リーグ所属のお話は消滅しました。

ホッと一息。

その後土曜日は朝方まで遊び呆け、日曜日は昼過ぎまで寝る。

絵に描いたような若者のぐうたら生活を送っていました。

そんな生活の中、当時の趣味といえば車。

社会人になって自分で稼ぐようになると、当然欲しくなるのはカッチョいい車です。

そもそも親父が車やバイクが好きだった影響もあって昔から車やバイクを眺めては自分が乗ってる妄想をしてましたw

憧れの車はエルビス・プレスリーが乗ってたピンクのキャデラックとハーレーダビッドソン。

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実は私、昔っから50’sやアーリーアメリカン大好き。中学校の頃からロカビリー聞いてまして、プレスリーのピンクのキャデラックにいつか乗ってやろうと思ってました。

ハーレーも同様に、いつか裸に革ジャン着て角の生えたヘルメットかぶってやろうって思ってましたねw

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働き出したら金貯めて、キャデラックかインパラ乗りてーと思ってました。

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そして当時心奪われたのがハイドロリクス。

 

ハイドロリクスをご存知ですか?

 

日本語で言うと【油圧】

 

車のサスを油圧ジャッキに変えて、スイッチで動いてピョンコピョンコ動くあれです。

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ホッピングという車の前輪を弾ませて高さを競う競技があることも知り、『いつか車飛ばしてー!』と大学時代から憧れてました。

でも現実問題お金はない。

アメ車って高いんですよ。しかもハイドロも金かかるんですよ。

そしてあまり目立つと『大城さんとこのドラ息子、アメ車乗り回してチャラいわねー。」みたいに思われると会社のイメージダウンということで、ド派手なアメ車は固く禁じられました。

ではどうするか?

国産車でしかも車検切れの車をもらってきて、ハイドロだけ組んでイベントで飛ばす。

そんな遊びにはまりました。

 

会社の置き場には溶接機やら工具やらありましたので、夜な夜な車好きの友人と集まり、(一応社長の了解済みで)夜中まで車イジリに没頭しました。

 

仕事終わってすぐ置き場に行って、夜中に帰ってまた仕事。

 

そんな生活で体力的にはキツかったですが、まー楽しかったですね。

 

そして何度かイベントに行ってたとき、ホッピング大会の司会者が車のこと全然知らずに、そのまま進行するもんだからまー盛り上がらない。

誰か車詳しくて喋れる奴いない?ってな感じでなんと私に白羽の矢が立ち、イベントMCをさせていただく事に。

 

初めて自分の仕切りでコンペした時は緊張しましたねー。

 

しかも、ローライダー諸君。テンション低すぎw

 

言うこと聞かない。

 

こちらの問いかけ無視。

 

不良どもめ・・・

 

それでもめげずに頑張りました。

 

目立ちたがり屋の恥ずかしがり屋の僕。

 

今たまに出させていただくテレビやラジオで緊張しないのはイベントMCとして精神を鍛えられたおかげですw

 

現在はかっこよさより使いやすさ、車に無駄な金はかけられないのでノーマルで乗ってますが、いつかキャデラックかインパラのコンバーチブル(オープンカー)乗りたいなーとか淡い夢を抱いてます。

所ジョージの世田谷ベースみたいな生活したい・・・

 

つづく

三代目社長のあゆみ 第10話 〜社会人デビューの2000年~

社長ブログをご覧いただきありがとうございます。前回のお話【第9話】はコチラ

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時は流れて、2000年。

世の中では【ミレニアム】で沸きました。懐かしいですね!2000年問題。

結局何も起こらず無事に21世紀突入でした。
ちなみに2000年に流行ったものはコチラ

この年、無事に大学を卒業(単位ギリギリで4年生の最終講義までフル稼働してw)を迎え、鹿児島へ帰りました。

大学卒業後の進路は、すんなり稼業というわけではなく、一応いろいろ考えましたね。

楽しくなってきた北九州の生活を続けるために、北九州の土木屋さんに就職をするか、鹿児島に帰って建設会社に就職するか、昔からの夢、飲食業の道へ進むか。

というのも、学生時代、モスバーガー以外にも焼き鳥メインの居酒屋のお手伝いも少しだけしていました。やっぱり楽しかったですね。

その頃でも料理好きは変わらなかったのですが、夢はコックさんが変化してきて、ラーメン屋➡︎居酒屋➡︎バーテンダーと変化していき、卒業後はバーテンダーの修行にでようかと思ってました。

なんか蝶ネクタイしてシェーカー振る姿に憧れて、部屋にカクテルキット揃えて後輩に振舞ったりもしてましたね。

前回のお話でモスバーガーで働いていたことをご報告しましたが、実は私、モスバーガーでの態度が良かったらしく正社員としてもスカウトされてました。

でもモスバーガーは盆正月の休みもない仕事なので、さすがにそこは辛いと却下。

モスバーガーで精神を鍛えてもらったのにあっさりと裏切る僕でした。

その後遊びながらもいろいろいろいろ考えて、やっぱり建設業の道へ進もうと決めました。

しかも、せっかく稼業が誰にも真似できない仕事【曳家】の会社となれば、よそで10年修行してる間に曳家職人への道が10年遅れるという現実がありました。

また、たまたま私が卒業を迎える2000年4月は【旧鹿児島県庁舎本館玄関部分曳家工事】という生きてる間に二度と出会えないであろう仕事を弊社で受注していました。

旧鹿児島県庁舎本館玄関部分曳家工事の様子

『このチャンスを逃すと二度とこんな仕事には携われないかもしれない。』

この物件が私の今の曳家人生の物語のスタートでした。

そして鹿児島へ帰り、4月からいよいよ社会人。

これまでのアルバイト時代とは責任が違います。

今までのアルバイトは1日過ごして体は絶好調な夜から出勤。

社会人となってからは、朝7時に出社、現場へ向かい8時から作業開始。夜帰宅するのはなんだかんだで20時ごろ。

当時ラグビーを引退したばかりだったので体力には自信がありましたが、いかんせん学生時代に無責任&自由奔放な生活をしていたせいで朝が弱い。

そして実家住まいだったので社長である親父と同居。

「いつまで寝てんだ!早く起きろ!」と素敵な声で目覚める毎日。

シフト制の仕事とは違い、現場の仕事は「ちょっと調子が悪いので今日のシフト代わってもらいます」ってのがまずありえない。

熱があろうがお腹グルグルだろうが、必ず会社には行きました。

一人が抜けると現場の流れが大きく変わる。

「新人のまだ使い物にならない小僧一人が休んだくらいで」ってのではなく、一人一人きちんと役割があり、その現場に入るみんなで1チーム。

『仕事をして給料をもらう以上はみんなプロフェッショナルでなくてはならない。』

まさにその通りです。

今考えれば、なんて甘ったれた考えで仕事してたんだろうと思います。

毎日仕事から帰ると夕食の時間はその日の仕事の反省会。

素直じゃない僕は自らの意見を尊重し親父とぶつかり合う日々。

でもその中でいろいろ考える機会を与えられ、親父の言ってることが現場で合致したとき、一気に理解度が増しました。

今背負ってる責任に比べれば、当時の小僧一人の責任なんてたかが知れていますが、自分が甘かった以上、これから迎える若い社員たちには仕事をする本当の意義を考えさ、理解してもらえるよう導いていきます。

若い頃って、「自分の主張が正しい!世の中は何もわかっちゃいない!」とかって勘違いしちゃうんですよね。

世の中いくら立場が変わっても、知識や技術を得ても年齢だけは勝てません。自分より先に生まれた先輩には年齢だけは一生勝てません。

今の社会、失われつつある、「年上を敬い、年下の面倒を見る。与えた恩義は水に流せ。受けた恩義は岩に刻め!」の精神を復活させていきたいと思います。

たった22年生きてきて、人生をいっちょまえに語る若者が右葉曲折しながら曳家職人としての道を歩みだした記念すべきミレニアムでした。

つづく

三代目社長のあゆみ 第9話 〜無責任&自由奔放な大学生活(バイト編)~

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なんだかんだでラグビーに明け暮れた大学時代でしたが、ラグビー部以外にも多くの人たちと出会いました。

うちの大学、野球が超強かったんですね。全国選手権優勝するくらい。マジで。

その証拠に多くのプロ野球選手を輩出しています。

もう現役引退しましたがソフトバンクホークスの柴原先輩はじめ、同級生では阪神タイガースドラフト1位の的場寛一。さらに後輩では沖縄が生んだ名投手 新垣渚など。

実は私、ラグビー部より野球部と仲が良く、4年生の頃はほぼ毎日野球部と飲んでましたw

沖縄水産高校のエースで甲子園球児だった与儀くんは卒業してからもずっと親交があり今でも僕が沖縄へ行ったり、彼が鹿児島に来た時は必ず飲みます。

県外の友達ができたのもやはり大学へ行かせてもらったおかげですね。

本当に両親には感謝です。

ラグビー生活と野球部と飲む以外の大学時代の思い出はアルバイト生活ですね。

わたくし、こう見えて、北九州市八幡のモスバーガーで働いておりました。1917398bef925-5826-46b6-b13b-53cae3fd96b0_m

過去の夢として将来コックさんになりたかった僕は、接客大好き飲食大好き。天職でした。

当時アルバイトの中でレギュラー昇格試験というのがあり、簡単な衛生関係の筆記試験と30秒以内にモスバーガーを組み立てる実技試験をクリアすると「レギュラー」の称号を与えられ、時給が上がるシステム。

ハンバーガーを組み立てる際、いかに早く美しく作るか。

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追求した結果、なんと社員レベルの15秒でモスバーガーを組み立てられるようになりました。

仕事を覚えると楽しくなりますね。

また、その当時のモスバーガーの教えが今の仕事にも生きています。

たとえば

1、お客様の満足しない仕事は価値がない

2、理不尽なクレームがあっても、まずは自分達の落ち度を考えよ

3、極端な話、ハンバーガーに髪の毛を自分で入れてクレームを言ってきたお客様に対しても、我々スタッフの髪の毛が混入していた可能性はゼロではない。誠心誠意謝罪をし、お客様が満足していただける手段を考える。

4、他店より値段が高いのには理由がある。細かな材料一つ一つにこだわりがある。だから安売りはしない。

言い回しはちょっと違うかもしれませんがこのようなことを教えられました。もしかしたらうちの店だけの対応だったのかも知れませんが。

この教えは業種は違えど本当に今の仕事に生きています。

モスバーガーで働いていなければ、今の自分はないと思います。

ある日店長に「目の前で髪の毛自分で入れたハンバーガー持ってこられたら、あなたはどういう対応をしますか?」

普通は「いやいや、自分で入れたでしょ?」ってなりますよね?

でもその時の店長が言いました。

『そのお客様の商品に本当に自分達スタッフの髪の毛が入ってなかったと言いきれますか?もし私たちスタッフの髪の毛が入っていて、それに腹を立てたお客様がパフォーマンスで自分の髪の毛を足してきたとき、あなたは原因も調べずにお客様を否定することになるのですよ?可能性がゼロでない以上、まずは不快な気持ちにさせてしまったことを誠心誠意失礼を詫びて、すぐに新しい商品を提供する。

お客様に最高のサービスが提供できていれば、もしくはいつでも最高のサービスが提供できる自信があればどんなことがあっても動じないはずです。』と。

この店長、サービス業の鏡ですね。

この基本方針、お客様は神様精神でクレーム対応を学びました。私自身夜10時からのシフトだったのですが、夜中でも

「さっきドライブスルーで買って家に帰って食べたらハンバーガー冷たいんだけど!」というお客様には新しいのをすぐに作って自宅までお持ちしました。

持って行った時にはまた冷めていて、お客様も「せっかく持ってきてもらったけど冷めてるねwでもありがとう!気持ちが嬉しいよ!」と言ってくださいました。

「ポテトが辛い!」というお客様には薄塩のポテトを自宅まで配達しました。そしたら今度は「薄い!」と言われたり(笑)

何もそこまでしなくても・・・って他の飲食でバイトしていた友達からも言われてましたが、うちの店ではそこは徹底してましたね。

クレームくださったお客様もまさか夜中にバイトがハンバーガー持って自宅まで来るとは思わないでしょうから、びっくりして本部に感謝の手紙を出したりもありましたね。

初動が良かったせいか、大きなクレームはなく、クレームくださったお客様もリピーターで通ってくださるお店でした。

結局、クレームというのはお客様を満足させられなかった時に発生するもの。文句を言われているのではなく、こちらの落ち度を教えていただくものだと考えています。

常にお客様に対して最高のサービスが提供できている自信があれば、どんなことがあっても動じないですね。

モスバーガーの教えが今の自分の基礎となっています。

モスバーガー引野インター店の皆様。ありがとう。

つづく

鹿児島市内で倉庫のうごかせもんど

本日快晴の中、鹿児島市中山町で倉庫のうごかせもんど。
裏の敷地が大規模宅地造成を行うので、取り付け道路の幅員確保に伴い、また用水路の進路変更により倉庫を移動することとなりました。
このように外周部しか壁と土台のない構造は一見簡単そうに見えるかもしれませんが、実は重量バランスが外周部にすべて集中しているので意外と難しいんです。

建物が歪まないように、壁が開かないように細心の注意を図りながらジャッキアップ・移動の工程を行いました。IMG_9161 IMG_9163

仮置き期間を経て、最終定着地へ移動します。

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三代目社長のあゆみ 第8話 〜無責任&自由奔放な大学生活(ラグビー後編)~

社長ブログをご覧いただきありがとうございます。前回のお話【第7話】はコチラ

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大学入学してラグビー部入部後即レギュラー獲得し、即補欠に転落した私。

理由はいろいろあります。

簡単に言うと、なめてたんです。大学ラグビーを。そして気持ちが入ってなかったんです。
高校では水も飲めず、地獄のような日々を過ごしていたので正直お腹いっぱいだったんですよ。ラグビーに。

そもそも大学ではラグビーではなく、実はアメフトがしたかった!

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そしてドラマのような華のある大学生活を満喫したかった!

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甘かったね。

 

あー、甘かったね。

 

現実は授業もまともに出ず、夕方からのラグビーの練習を終え、バイトに行き、朝方帰ってきてから昼過ぎまで寝て、またラグビーに行く。

THE ぐうたら大学生してました。

毎日パチンコしてラグビして夜は飲んでました。

お父さんお母さんゴメンナサイ。

今思ってもあれほど時間を無駄にした日々はなかったなぁ。。。

あの時今の感性があれば、もっと色んな事やってたなぁ。。。

TIME IS MONEY

時間とお金は失ってから価値に気づく。。。

そんなグウタラ生活の中でもそれなりにラグビーは頑張っておりまして、毎年夏になると大分県の湯の平へ合宿へ行くのですが、その時ほぼ合同合宿と言っていいほど練習と試合をともにしたのが当時九州一部リーグでバリバリの福工大。

その時同じ学年にいたのはなんと

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ラグビートップリーグ 東芝ブレイブルーパス 冨岡鉄平ヘッドコーチ

練習試合でこの人にタックル行ったら見事に吹っ飛ばされたんですけど、その時の衝撃と言ったらですね、ほんとに車に轢かれたかと思いましたよ。

首折れたんじゃないかって思うくらい。全身の骨が「バキバキバキ」ってなりましたもん。

当時からプレーが際立ってましたね。トップリーグ東芝府中へいってキャプテンやってヘッドコーチにもなるのも納得。

そんなこんなで冨岡鉄平ヘッドコーチは毎年鹿児島合宿に来ていた関係もあり、今でも親睦があります。忙しい人ですからね。僕みたいな下っ端とは飲んでくれませんがw

と、また話が逸れましたが、グウタラの割にはラグビーだけは九州学生一部リーグ昇格を目指して一生懸命やってました。

当時は今とは違い、痩せてましたしね。

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僕たちの学年、なんと4人だったんですよ。15人でするスポーツなのに4人。

まさかの4人。されど4人。一年生の時は4人で雑用頑張りました。そのおかげで絆は深かったですね。

1年の時はチーム全体が遊び人の集まりのような感じだったので、口では一部昇格とか言ってましたが、私生活はぐちゃぐちゃw先輩たちに遊びに連れてってもらう毎日をエンジョイしてました。

夜中の1時に「今からラーメン食い行くぜ!5分で準備せろ!」って言われて北九州から博多までラーメン食いに連れて行かれたりw

それでもそこそこ強かったんですよ。練習もまあまあで意外と勝ててたんですよ。

一年生で迎えた初めてのリーグ戦は2位。入れ替え戦で負けて2部残留という成績でした。

2年生になった頃、散々遊び人だったキャプテンが一念発起、真剣にラグビーと向き合い出します。

勝つために体力作りも含め、練習メニューはキツくなり、キャプテンと副キャプテンが今まで散々不真面目だったのに急に真面目になりだしたもんだから、周りの先輩たちとの温度差でいろいろ内部紛争がおきましたw

真剣にラグビーしながらもやっぱり遊びたい人たち。でも次第に真面目に取り組む姿勢に心を打たれてか、チーム全員で真剣に一部昇格にむけて取り組むようになりました。

それでも急に真面目になったからすぐ勝てるか?といえばそうでもなく、結局その年はまたリーグ戦2位、入れ替え戦負け。その翌年も、同じ成績でした。

毎年2位の九共大。自分たちが4年生になった頃、チームの空気は本当に1部昇格を狙いに行っていました。

4年生になってからの自分はスクラムの最前列でスクラムをリードする「フッカー」というポジションを任されており、スクラムリーダーとしてFWをまとめていました。

そんなこんなで最後のリーグ戦、一番の山場となるであろう試合の日です。対戦相手は沖縄国際大学。
これに勝てば残りの試合は間違いなく勝てるという状況だったので、リーグ優勝間違いなし、入れ替え戦は1部の最下位と戦うので勝てるであろうシチュエーション。

やっちゃいました。僕。

試合前日、軽めの練習で早く終わり、時間が余ったもんでパチンコ行ったら勝っちゃって、調子に乗って夜行きつけの居酒屋行ったら飲みすぎて、試合当日寝坊です。

そしてさらに二日酔いの体調不良です。チームメイトからの冷たい視線に心もズタズタです。

そんな心持ちで試合に出ても、うまくいくはずがない。試合中にミス連発。

惜しくも敗れました。。。

そんな迷惑をかけたので当然干されました。次戦はベンチでスタメン出場できないとなり、開き直った僕は試合前夜、反省の色なくベンチ入りしてない後輩を部屋に集めて夜中まで麻雀。

それが試合当日キャプテンに発覚。

同級生のキャプテンから、「お前ふざけんなや。二度と試合出さんからな。」と言われ、素直に謝ればいいものを、

「おう、わかった。」と反省の色なし。心の中で「なんや!偉そうに。」と思ってたんですね。

今思い返してもサイテーですね。自分が恥ずかしい。

我々のチームではキャプテンがメンバーを決めていたので、そんな事情を知らない監督は次の試合で「大城はなんで試合出ないんだ?怪我か?」みたいな。

後輩も「なんで試合出ないんですか?どこか悪いんですか?」

みたいな。

キャプテンに干されたのを認めたくないのと恥ずかしくてみんなに知られたくないのでしれっとしてました。

最終リーグ戦で突然抜けたスクラムリーダー。プロップの相方から「お前が出てくれんとスクラムがまとまらん。キャプテンに謝って戻ってこい」と言われても、変な意地があったんでしょうね。

放置してました。あの時、素直に謝ることができていたら・・・

その後メンバーの怪我やらで試合には出てたのですが、キャプテンとはギクシャクしたまま。

大学ラグビーの最後はなんとも後味の悪いものになってしまいました。

結局リーグ2位で終了、例によって入れ替え戦では惜敗し、2部残留という結果で大学ラグビーは終了。

その翌年、後輩たちが雪辱を晴らしてくれて見事一部リーグ昇格し、今では九州学生リーグのトップに君臨するチームに成長しました。今後の九州共立大の活躍を遠くから祈念しております。

その後キャプテンとも何と無く仲良くはしていたものの、ちゃんと謝ることはできず卒業を迎え、大人になって何年かぶりに飲んだ時、やっと「あの時はすまんかった。負けたのもすべて俺の責任だ」と謝ることができました。

せっかくできた絆を失うのも一瞬。楽しさと悲しさと悔しさの大学ラグビー生活でした。。。

 

つづく

三代目社長のあゆみ 第7話 〜無責任&自由奔放な大学生活(ラグビー前編)~

社長ブログをご覧いただきありがとうございます。前回のお話【第6話】はコチラ

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話は少しさかのぼり、時期は高校3年生、最後の夏の日の出来事。。。

私は高校卒業後はどこかの土木会社に就職して、土木の修行して、いずれ実家に帰ろうかと思っていたところ、両親より大学進学のすゝめ。

「いやいや、アニキは成績優秀で大学行ったのはわかるけど、俺だよ?勉強嫌いで頭使うより体使う俺だよ?

大学行かなくていいよ。」

だって成績優秀ではなかった私が実力で行ける大学はわずか。

私の成績で受験可能であるとピックアップした学校が

北九州市 九州共立大学

長崎市 長崎総合科学大学

福岡 第一経済大学

鹿児島 第一工業大学

「わざわざ大学いかなくてもねぇ」って思ってた僕に両親の喝!

『親が行かしてやるって言ってるんだから甘んじて受けろ!』

親の愛情にも気づかない、アマちゃんな僕でしたが、せっかくそう言ってもらえるならと無い頭でも何とか入学するために少しでも可能性をと、九州共立大学のラグビーセレクションを夏休み受けました。

当時九州学生2部リーグに所属していた九州共立大学。採用枠はFW・BK合わせて3名。

当時、チームのBKは戦力的に足りていたのでFW2名、BK1名で採用ではないかとの情報あり。

FWの1番募集しているポジションはプロップでした。

ラグビーを知らない方のために簡単にプロップを説明します。maxresdefault

1、スクラム最前列でとにかく体がデカイが良いとされ、スポーツ界では珍しくデブがもてはやされるポジション。

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2、走力やテクニックより体重根性が求められるポジション。

3、不器用でもできるが、スクラムは過酷。

4、スタミナがなくても『まあ、プロップだから』と温かい目で見てもらえるポジション。

5、動けるデブがものすごく試合のキーマンとなりえる場合があり、意外とトライゲッターになれるポジション。

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6、昨年のワールドカップをご覧になった方はお分かりかと思いますが、トップチームになると決してデブではなく、ゴリラを超越したゴツゴツの岩みたいな人がやっているポジション

7、走れるプロップはもはや神

その他プロップ情報募集します。

さて、セレクションの時に受験生のFWの中でプロップ希望受験者がなんと1名しかいませんで、『受かるにはここしかない!』と決意した私。

身長176cm 体重75kg 50m走6秒9 と決してデブでもゴツくもなかった私ですが、高校入学当初がデブで走力が無く、プロップ経験があったのでスクラムは組める自信があったので言いました。

私 『僕、プロップできます。むしろこう見えてプロップです。』

先輩 『えっ?その体でスクラム組めるの?』

私  『組めます。』

先輩 『じゃあ、組んでみて。』

組めましたとも。

ライバルのおデブちゃんは幸いスクラムも弱く、走力、体力無し、パスも放れず。

勝ちました。僕受かりました!ポジション偽装で。

そして晴れて入学した私。

もちろんプロップです。

まあ、大学ラグビーとはいえ2部リーグだろ?と甘く見てました。

大学生ともなると体が一回り大きくなるんですね!

そりゃスクラムが重いのなんのって。

見事に腰を打ち砕かれ、告白しました。

『すいません。実は私、高校一年でプロップ辞めました。今はロックorフランカーです。』

先輩 『はぁ???今更関係ない!メンバー他にいないんだから、お前はプロップだ!』

そうして僕の大学ラグビーはプロップから始まり、そのまま春の九州商業経済大学選手権にて公式戦デビューしました。

九州2部リーグながら意外と強かった九州共立大ラグビー部はトーナメント戦を順調に勝ち進んでいきあれよあれよと決勝戦へ。

相手は当時九州1部リーグの第一経済大学。(元日本経済大学)

私のスクラムの対面の相手は高校からプロップ専門の動けるデブ。

こっちはポジション偽装。

勝てるわけありません。

スクラムを見事に押され続け、試合は敗退。

試合後チーム最凶の鬼のような横暴&理不尽な先輩に頭を叩かれ、

鬼 『お前スクラム弱すぎじゃボケ!それでよくプロップだとか言えるな!』

僕 『いや、だって僕、本職プロップじゃないんですもん・・・』

鬼 『クビ。』

1年生でいきなりレギュラーを獲得し、シーズン半ばで見事な転落。

補欠人生の始まりです。。。 つづく

三代目社長のあゆみ 第6話 〜人生を変えたラグビーとの出会い 2・3年生編〜

社長ブログをご覧いただきありがとうございます。前回のお話【第5話】はコチラ

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過酷な1年生時代をなんとか乗り越え、いよいよ2年生へ進学。

夢の進学です。

なんてったって練習中に水が飲めるんですもの♡

「なーんだ。水飲めるくらいで」って思ったそこのあなた!水はすごいんですよ?
なんてったってラグビー界では『魔法のやかん』なる伝説が存在し、脳震盪をはじめ、打撲、切り傷、靭帯損傷、場合によっては骨折まで『魔法のやかん』の水を浴びると治ってしまう。

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今思えばみんな極度の脱水症状で、水を飲むだけで元気100倍になってたのかもw

今では信じられないでしょうが、試合中に人が倒れると

『やかーーーーーーん!!!』という掛け声とともに一年生やマネージャーが金色のやかんを持ってグランドに走って行ってました。

 

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やかんで全て解決する。そんな時代ですw

さて話が逸れましたが、1年生とは違い2年生になるとそこそこ実力の差が現れ出し、上級生とのレギュラー争いが始まります。

縦社会の厳しいラグビー部の世界でも試合となると別。実力社会です。

プレーの際立つものはポジションを勝ち取り、先輩でも実力のないものは蹴落とされます。

自分で努力した分だけ成果が生まれる過酷な世界です。

上級生だからといって必ず試合に出れるわけではない。でも立場は先輩。思春期の高校生にはなかなか受け入れがたい事実も多々ありましたね。そんな私は2年生でレギュラー争いに絡んでないので無縁でしたが・・・

今思えば2年生の時の努力は圧倒的に足りなかったと思います。

どうせ3年生には勝てないから、来年頑張ろうって怠け心もありました。気持ちでまず諦めてましたね。

そんな私もいよいよ3年生になり、待望のレギュラー獲得!

今まで見てきた同じポジションの先輩たちのような華やかなプレーを・・・

そんな簡単にはできません。現実は甘くない。

私たちの代は、先輩たちと違い圧倒的なスター選手がいませんでした。それに加えてみんなの実力が他校よりは平均的に優れているとはいえ、全てが中途半端。

1・2年生大会も含め鹿児島県内の大会で一度も優勝することができませんでした。3年生春の新人戦でも決勝で鹿実に敗れ、2位グループで九州大会に出場したものの一回戦負け。

先輩たちのような常勝軍団にはなれませんでした。

そんな弱気なムードも吹き飛ばさねばと挑んだ自分たちの代で鹿児島初の3連覇のかかった花園予選決勝。

前半からゲームを支配され、思ったような攻撃ができず、気がつけば19-10のスコアで宿敵鹿実に敗れ、花園を逃しました。

やはり春の高校総体予選決勝でも負けていたため『我々は勝てるんだろうか?』と弱気な雰囲気も持っていました。

やる前から諦めていたような空気感があったのは事実です。

今でも「あの時もう少し努力しておけば。あの決勝でもっと死ぬ気で頑張れば」と悔やむことがあります。

今、社会人になり、経営者になって実感した事。

『どんな状況でも最善を尽くし、やり遂げなければならない。』

『やると決めたことは言い訳せずにとことんやらなければならない。』

『死ぬ気でやっても死にはしないんだから、死ぬ気でやるべきだ!』

後から『あの時ああすればよかった、こうすればよかった』と思うのは人間の性。

それをちょっとでも少なく、後悔なく生きるのは難しいが目指さなければいけない事ですよね?

私はラグビーを通して多くの事を学びました。

ONE FOR ALL! ALL FOR ONE!

一人はみんなのために、みんなは一人のために。

時には自分を犠牲にしてでも仲間を助ける!

そして仲間を信頼する!

多くの仲間を授けてくれたラグビーに感謝です。

そんな仲間達と今でも遠慮なく、人権なく、品もなくバカやって楽しく飲めるのは心から信頼し合っているからです。

現代社会で失われがちな『人を信頼する』という事を思い出させてくれます。

今でも同級生だけではなく、直接関わりのなかった先輩や後輩も同じ鹿児島工業高校ラグビー部OBということで繋がりを持っています。

これからもラグビーで学んだ事を人生に生かし、精進していきます!

つづく

三代目社長のあゆみ 第5話 〜人生を変えたラグビーとの出会い 1年生編〜

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さて、なんとか努力も実り、鹿児島工業高校へ入学しました私。

鹿工に入ったからには花園目指さねば!と意気込んでラグビー部へ。

正直なめてました。

ラグビーとは軽やかに走り、男らしくぶつかり合う!

カッコイイ事しか見てませんでした。

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が、しかし!現実は

『痛い・キツイ・臭い』

3拍子揃っています。

こんなに過酷なスポーツが世の中にあったのかと思うくらいでした。

とは言っても入部当初からボールが触れるわけでもなく、まず1年生は基礎体力作り。

5km走る→筋トレ→3km走る→筋トレ→声だし&玉拾い

この練習メニューを毎日休みなく約3ヶ月。

入部当初30人を超えていた新入部員は夏には半分まで激減。

私も飯が食えないくらい衰弱し、72キロのポッチャリさんが65キロのスマートさんに変身!

何度もやめようかと・・・

ほんとに毎日溜息しか出ませんでした。

が、しかし、何のために鹿工へ来たのか!

みんなキツイのを乗り越えて頑張ってる!

ここで負けてたまるか!と奮闘し、何とか続ける事ができました。

私の人生において未だかつて高校1年生の時よりきつかった記憶はございません。

もし人生をやり直してまたラグビーをするとしても高校2年からがいいです(笑)

そうして今までの甘っちょろい15年間の人生をコテンパンに打ち砕かれ、新たな鹿工ラグビー部員としての人生が始まりました。

当時の我が鹿工ラグビー部は鹿児島県では鹿実と2強時代を築いており、1年生、2年生の時は花園連続出場を果たしていました。

私はもちろん補欠でしたが。

自分が1年生の時の3年生の先輩たちは、本当に同じ高校生か?と思うくらい気合も筋肉も発達していました。入学当初の15歳と2年間の荒波にもまれた17歳の2年の違いは凄まじいものがあります。

神の3年生、平民の2年生、奴隷の1年生。

練習時は「水を飲んだら体力がなくなる。練習中は水を飲んではいけない」という、今では都市伝説のような教えが疑いもなく信じられていた時代です。

練習中に水を飲むのが許されるのは2年生以上。あの時初めて「人間、限界だと言えるうちは限界じゃない。」ということに気付かされました。本当に限界を迎えた人間は「限界です!」とか、「もう無理です!」とか言えません。

本当に限界を迎えた人間は、黙って倒れます。。。

水が飲めないのに走らされ、喉がひっつくあの感覚。今でも忘れられません。

あの時は流れる便所の水でさえ飲みたいくらい追い込まれてましたね。水たまりの水はコーヒ牛乳ではなく、ただの苦い水ですw(飲んだ人の経験談)

これはラグビー部だけではなく、他の部活にも共通して持たれていた共通認識でした。

気合と根性があればなんとかなる!っていう時代。

人生後にも先にもあれほど過酷な時期はありませんでした。

そのおかげで多少の試練ではビクともしません。動じません。

逆に少々のことでヘコタレる人とは今でも仲良くなれませんw

今の自分につながる精神力を培った大切な1年間でした。

つづく