三代目社長のあゆみ 第13話 〜社会人ラグビー【ろっこうクラブではじまる第4のラグビー人生】~

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学生時代から本当にいろいろと怪我をしました。

止む無く引退という形をとりましたが、最後にした怪我は左足内側靭帯損傷。

全治1ケ月ほどかかったでしょうか。

日常生活支障出まくり。

ソフトボールは危険なスポーツでした。

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そう!ラグビーではなく、ソフトボールで私は最後に大怪我をしたのであります!

雨上がりの芝生のグラウンド

草ソフトボールの試合でレフトを守っていた私は、ライン際のボールを華麗に裁こうと全力で走りボールの正面へ回り込み、腰を落としてキャッチしようとしたその瞬間!

雨に濡れた芝生が滑る滑るで大股開きに。

見事靭帯を伸ばせるだけ伸ばし、一部断裂。

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社会人ラグビーを引退するトドメを刺されました。

マジックボールを引退し、またまた日常の遊び人生活に戻っていた私ですが、そこへ来たわけですよ。

ろっこうクラブへのお誘いが。

本来であれば、最初から【ろっこうクラブ】へ入るのが筋だったのですが、前日記にもあったように、若いOBは皆他のクラブに入ってたのです。

当時の【ろっこうクラブ】の主力は40代半ば。

マジックボールと比べればご高齢であられましたw

若いものは若い者同士、年・・・先輩方は先輩方同士で集まる感じだったんですね。

でもね、先輩方のラグビー愛は若者よりもすごいんですね。

みんな一通り社会人して、子育てして、その中でラグビーという趣味に打ち込む。

若い時と違い、土曜日は朝まで遊ばないので、日曜日は清々しくラグビーに打ち込むわけです。

今40前になって、やっとあの時のろっこうクラブの先輩たちの気持ちが分かってきました。

でも30歳になる前はまだそれほどラグビー愛はなく、ゴルフの方が楽しい!同じ芝生でやるならゴルフでしょう!怪我しないし!

って感じで、ゴルフにハマっていましたw

靭帯の怪我も完治し、運動も支障がなくなってきたときにまたまたお誘いだったので悩みましが、最初はお断りしていました。

ゴルフは怪我しないしw

そこへ来てまた新たな企画が始まったんですね。

高校別ラグビーOB対抗戦。

その高校の名誉をかけて各校のOBが、若者からおっさんまでが入り乱れて試合をするんですよ。

それがまた白熱するんですね!

鹿児島工業高校は鹿児島ナンバーワンの名誉をかけて戦いました。

第一回大会は宿敵鹿実をうち破り、鹿工Aチーム(30歳以下)が優勝。

この試合に出てからまたラグビー熱が若干復活。

【ろっこうクラブ】での第4のラグビー人生が始まりました。

強制的にではなく、趣味として、楽しんでラグビーをやっているチームでしたので、試合に勝った負けたよりも、みんなでワイワイやれるんですよ。

もう大人ですから、試合中にアツくなって乱闘騒ぎもないんですね。

平和でした。

マジックボールの頃は一試合中に3~4回の乱闘騒ぎがあり、いつもキャプテンが怒られてましたw

ラグビーの試合中にケンカが起きた場合は両チームのキャプテンがレフリーに呼ばれて注意されるのですが、なんとキャプテンがケンカしてたんですw

なのでケンカが落ち着いてからレフリーが

レフリー『両チームキャプテン』

レフリー『マジックボールキャプテンは?』

キャプテン『はい。僕です。』

レフリー『おまえか!じゃあ副キャプテンは?』

副『はい。』

レフリー『君たちは毎試合毎試合ケンカばっかりして!ダメじゃないか!キャプテンにもよく言っておきなさい!』

かなり迷惑かけてましたね。とくにセンターの大工の人とかwいつもケンカしてたしw

今では優しい居酒屋の大将もたまにケンカしてたしw

キャプテンに至っては『おれ、ケンカして怒られるから誰かキャプテン変わって』みたいなw

城西高校OB。コワイコワイw

話が脱線しました。

とにかく【ろっこうクラブ】そんなこんなでラグビー生活が再開したわけですね。

ところが、社会人ラグビーを復活したことが当時社長である親父にバレたんですね。

以前頭部パックリホチキス事件で

『ラグビー引退しろ!仕事をなんだと思ってんだ!』

ときつく怒られ、その後ソフトボール靭帯事件ですから、

『もう二度と怪我をして仕事に支障を来すのは許さん!』

と釘を刺されていたんです。

でもね、ろっこうクラブの代表は仕事の取引先でもあり、鹿児島工業ラグビー部OB会会長の久保忠建設社長の久保武志さん。

いつも飯おごってくれるし、飲みおごってくれるし、断れないじゃないですか。

『なんでまたラグビー始めたんだ!』と怒鳴る親父に

『武志さんの誘いを断れなくて・・・』というと

『また武志か!』と。

イメージダウンw

そんな中、出れるときはこっそりラグビーをし、大怪我をしないように端っこでプレーするスタイルでやってましたが、子供が生まれてからはなかなか日曜日も時間が取れない。

いつの間にかまたまたラグビーから身を引くこととなりました。

昨年のラグビーワールドカップでのジャパンの快進撃!

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そして今年のリオオリンピックのラグビーセブンスは鹿工ラグビー部卒の桑水流キャプテンを中心にベスト4進出!

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ラグビー熱がまたフツフツと。

いつかまた第5のラグビー人生が始まるかも???

つづく

三代目社長のあゆみ 第12話 〜社会人ラグビーはじめる【マジックボール編】~

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最初に言います。

今日は長いです。

若気の至りで稼いだ金は車に使い、寝不足の日々を過ごしていたある日のこと、高校時代のラグビー部の優しい先輩から久しぶりに連絡が。

『お疲れさん。今社会人ラグビーの新しいチームがあって、今度の日曜日、どうしてもメンバー足りないから一試合だけ出てくれないか?』と。

『いやいや、走れないから無理っすよ!』とお断りを入れると、

『大丈夫!大丈夫!5部リーグだから、ルールわかれば試合でれるレベルだから!エンジョイラグビーよ!』

ほうほう。ルールわかれば出れるレベル?

そんなレベルならもしかしたら俺、スター選手になれるんじゃね?

みたいな浅はかな考えで『じゃあ行ってみますね。』とお返事。

『サンキュー!じゃあ日曜日の朝7時に天文館公園集合だから!俺いけないから正太君ってのを探してね!』と先輩。

『What’s???

俺いけないからよろしく?

イミワカラン。。。

知らない人たちと初めましてでいきなりラグビーやれとおっしゃるのですか???』

『大丈夫!大丈夫!みんないいやつだから!っていうか俺も正太君以外はあんまり知らないけど、行けばなんとかなるから。じゃ、よろしくー!』

先輩の言うことは絶対です。

行きましたとも。日曜の朝7時に天文館公園に。

誰もいねーじゃねーか。。。

俺は騙されたのか?

社会人ドッキリか?

なんなんだこれは。

正太さんどこにいるの?

ってか【正太】という名前から勝手にこんなの想像してました。

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7時を10分ほど過ぎるとちらほらと人が現れ始めました。

でも僕の思ってた正太さんはいません。

その中の人に聞いてみました。

「あの、すいません。正太さんって方いらっしゃいますか?」

「あ、あの人ですよ!」

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うん。思ってたのと違うw

気を取り直して自己紹介。

「はじめまして。N先輩から聞いてきました大城です。今日はよろしくお願いします。」

「今日はわざわざありがとうね!助かるよ!」

なんだ、いい人じゃん。

これが後に僕の結婚式で友人代表のスピーチまでお願いすることになった、焼鳥侍坊主の【迫正太】さんとの出会いでした。

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この時誘われていったチームは城西高校のOBたちで、さらに天文館で商売をやっている人たちが中心となって結成した【マジックボール】というチームでした。

この時マジックボールで出会った人たちと今でも大変仲良くさせていただいております。

この時マジックボールに入らなければ、今の私の天文館の人脈は半分以下になっていたことでしょう。

それだけ大きな出会いでした。

一部ご紹介すると

居酒屋【かわぐちのりお】店主の河口憲雄さん

BAR U3 代表で今は釣り船の操業がメインの米 勇三さん

BLAZEの鶴之園大輔くん

ローライダー業界の重鎮 ONE MAKE 森 元由くん

大工で今は大社長の (株)秀成 西郷社長

などなど、とても楽しくラグビーできました。

当時結成して初めてのリーグ参加で5部リーグだったのですが、私が参加したのは初シーズンの二試合目。

本当に当時の5部リーグは素人レベルで、マジックボールの快進撃は凄まじいものがありました。

初シーズンの5部リーグで見事優勝!

【ラグビーって苦しいんじゃない。楽しいんだ!】とはじめて気付いた24歳の春の出来事。

翌シーズンは4部リーグ昇格でした。

この時多くの鹿児島工業高校ラグビー部の同級生もチームに誘い、さらに別口で鹿実のメンバーも数名加入。

城西+鹿工+鹿実の混成チームとなり、ますます勢いが増していました。

そして迎えた4部リーグ

またまた優勝。

あれよあれよで結成2年目には3部リーグへ。

マジックボールの時代が来たな。この勢いで3部も優勝だ!と息巻いて楽しかったのはここまで。

3部リーグともなると今度は相手もなかなか強豪になり、お遊びエンジョイラグビー状態ではなかなか勝てないんですね。

この時のマジックボールのメンバーは20代半ばの元気盛り!

せっかくだからオフシーズンはちゃんと練習して、3部でも勝てるチームにしよう!

となりました。

が、しかし、現実はなかなか厳しいもので、ちょっと練習すれば勝てるほど世の中甘くない。

そらそうでしょう。

しかも練習やっても人が集まらない。

そらそうでしょう。

練習より遊びが楽しいんだもの。

若いんだもの。

みつを。

まぁそれでも試合のときには人数が集まっていたので、シーズンは試合のみ出るような形で続けていました。

そんなある日のこと。

場所は宮之城かぐや姫グラウンド。

高校時代、合宿で苦しい思いをしたグラウンドです。

対する相手は強豪【宮之城クラブ】

この日は何かに取り憑かれていたのでしょうか?

怪我人続出。

なんと足首を複雑骨折した人もいました・・・

私はというと、タックルに入った際、相手の肘が頭部に刺さり、頭パックリ大量出血。

でも交代要員はもうおらず、止血して試合に出続けました。

そして今度はボールを貰った瞬間相手からのカチ上げタックル。

見事脳震盪を起こした私は、誰にも言わず一人グラウンドを去り、芝生の上で体育座りで試合の行く末を見つめていました。

一部記憶喪失w

なんだかんだで試合終了。複雑骨折の森くんは救急車で川内の病院へ搬送。

同じ車で来ていた僕は頭パックリで川内の病院まで付いて行きました。

複雑骨折の診療中、私の頭パックリも見てもらうと縫わないといけない状態で、その場で縫うと抜糸を鹿児島市内でするとまた初診料かかるので、市内で縫ったほうがいいですよ!と先生。

頭パックリのまま運転して帰りました。

そして某休日診療をしている病院へ。

休日診療ですからね。外科医がいなかったんですね。

当番医は女性の先生で、専門はなんと眼科w

でも医師免許はあるので僕の頭パックリは眼科医の処置に委ねられることにw

髪も剃らずにできるということでホッチキス止めですることになりました。

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眼科医に縫われるよりは処置はホッチキスが無難とホッとしていたのもつかの間。おそらくこの先生、ホッチキスしたことないっぽい。。。

ベテランのおばちゃん看護師に「これ、どうするんですか?」と小声できく始末。

おいおい、聞こえてますよ。大丈夫ですか?先生?

ベテラン看護師は堂々としたもんで「この傷が開いてるところを指で寄せてホチキスで一気に止めて」と説明しながら一発目。

「ザクッ」

「いてー!」

麻酔なしで頭にいきなりホチキスですよ。

頭蓋骨に刺さったかと思いました。

そこに先生の一言

「だいじょうぶですよー。すぐ終わりますから。麻酔も打てますけど、麻酔のほうが痛いと思いますのでー。」

女医よ。君は眼科だろ。君の大丈夫は信用できん。

ちなみにこんな感じでホチキスされてたんだと思います。

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そんな思いもむなしく二発目投入。

続いて三発目も無事に刺さり、なんとか傷はふさがりました。

頭部にホチキス。

タチの悪いイタズラ以外でなかなか経験しませんね。

頭部ホチキスを保護するためにガーゼで抑える。

見た目完全に円形脱毛症を隠してるんじゃないか?って感じ。

なんとその時私、鹿児島市の公共事業を受注しておりまして、現場監督としての立場でした。

毎週市役所職員と下請け企業と定例打ち合わせがあるんですよ。

頭にホチキスon theガーゼで。

朝の作業前の朝礼で『無事故無災害で本日もご安全に!』って言ってる本人が怪我してるわけですよ。

こりゃイカン。

さらにそのシーズン、右足首靭帯損傷。

ラグビーに怪我はつきものですが、社会人になると怪我は笑えない。

それでもみんなとやるラグビーが楽しくて、『辞めろ!』という親父を無視して社会人ラグビーを続けていましたが、試合に勝てなくなり、人も次第に集まらなくなり、残念なことにマジックボールは事実上解散。

楽しいラグビー生活が幕を下ろしました。

そしてまたラグビーと離れた生活をしていたある日のこと

鹿児島工業高校ラグビー部OBメインで結成する【ろっこうクラブ】の選手兼監督で、公私ともにお世話になっている先輩から

『今どこにも入ってなければろっこうに入らんか?鹿工卒なんだから入れよ!』

とのお誘いが。。。

というところで本日はここまで。

【ろっこうクラブではじまる第4のラグビー人生】へつづく

三代目社長のあゆみ 第11話 〜趣味に目覚める 車イジリ編~

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さて、無事に鹿児島へ戻り曳家職人としての道を歩みだし、社会人生活にも慣れてきた頃。

やっぱりくるんですね。

お誘いが。

ラグビーの。

当時、社会人リーグの1部のチームに鹿児島工業高校ラグビー部の先輩たちも多数属していました。

当時甲南クラブという強豪チームに所属する先輩から

「鹿児島帰ってきたならラグビーせんか!」とプレッシャー。

「もう一年以上まともに動いてないので走れないっすよ。」と僕。

そんな僕に大先輩のサラッと一言。

『大丈夫。走り込みから始めるから。』

『・・・・・。。。』

鬼だ。なぜ大人になってまで趣味で走りこみせねばならん。

いやだ。キツイの嫌だ。怒られるの嫌だ。怖いよー。。。

高校でお腹いっぱいになたラグビーを大学でも4年間やり、本当にお腹いっぱいだった僕はもうラグビーをするつもりは全く持ってありませんでした!

なんとか鬼のような大先輩の誘いをマタドールのように華麗にかわし、1部リーグ所属のお話は消滅しました。

ホッと一息。

その後土曜日は朝方まで遊び呆け、日曜日は昼過ぎまで寝る。

絵に描いたような若者のぐうたら生活を送っていました。

そんな生活の中、当時の趣味といえば車。

社会人になって自分で稼ぐようになると、当然欲しくなるのはカッチョいい車です。

そもそも親父が車やバイクが好きだった影響もあって昔から車やバイクを眺めては自分が乗ってる妄想をしてましたw

憧れの車はエルビス・プレスリーが乗ってたピンクのキャデラックとハーレーダビッドソン。

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実は私、昔っから50’sやアーリーアメリカン大好き。中学校の頃からロカビリー聞いてまして、プレスリーのピンクのキャデラックにいつか乗ってやろうと思ってました。

ハーレーも同様に、いつか裸に革ジャン着て角の生えたヘルメットかぶってやろうって思ってましたねw

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働き出したら金貯めて、キャデラックかインパラ乗りてーと思ってました。

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そして当時心奪われたのがハイドロリクス。

 

ハイドロリクスをご存知ですか?

 

日本語で言うと【油圧】

 

車のサスを油圧ジャッキに変えて、スイッチで動いてピョンコピョンコ動くあれです。

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ホッピングという車の前輪を弾ませて高さを競う競技があることも知り、『いつか車飛ばしてー!』と大学時代から憧れてました。

でも現実問題お金はない。

アメ車って高いんですよ。しかもハイドロも金かかるんですよ。

そしてあまり目立つと『大城さんとこのドラ息子、アメ車乗り回してチャラいわねー。」みたいに思われると会社のイメージダウンということで、ド派手なアメ車は固く禁じられました。

ではどうするか?

国産車でしかも車検切れの車をもらってきて、ハイドロだけ組んでイベントで飛ばす。

そんな遊びにはまりました。

 

会社の置き場には溶接機やら工具やらありましたので、夜な夜な車好きの友人と集まり、(一応社長の了解済みで)夜中まで車イジリに没頭しました。

 

仕事終わってすぐ置き場に行って、夜中に帰ってまた仕事。

 

そんな生活で体力的にはキツかったですが、まー楽しかったですね。

 

そして何度かイベントに行ってたとき、ホッピング大会の司会者が車のこと全然知らずに、そのまま進行するもんだからまー盛り上がらない。

誰か車詳しくて喋れる奴いない?ってな感じでなんと私に白羽の矢が立ち、イベントMCをさせていただく事に。

 

初めて自分の仕切りでコンペした時は緊張しましたねー。

 

しかも、ローライダー諸君。テンション低すぎw

 

言うこと聞かない。

 

こちらの問いかけ無視。

 

不良どもめ・・・

 

それでもめげずに頑張りました。

 

目立ちたがり屋の恥ずかしがり屋の僕。

 

今たまに出させていただくテレビやラジオで緊張しないのはイベントMCとして精神を鍛えられたおかげですw

 

現在はかっこよさより使いやすさ、車に無駄な金はかけられないのでノーマルで乗ってますが、いつかキャデラックかインパラのコンバーチブル(オープンカー)乗りたいなーとか淡い夢を抱いてます。

所ジョージの世田谷ベースみたいな生活したい・・・

 

つづく

三代目社長のあゆみ 第10話 〜社会人デビューの2000年~

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時は流れて、2000年。

世の中では【ミレニアム】で沸きました。懐かしいですね!2000年問題。

結局何も起こらず無事に21世紀突入でした。
ちなみに2000年に流行ったものはコチラ

この年、無事に大学を卒業(単位ギリギリで4年生の最終講義までフル稼働してw)を迎え、鹿児島へ帰りました。

大学卒業後の進路は、すんなり稼業というわけではなく、一応いろいろ考えましたね。

楽しくなってきた北九州の生活を続けるために、北九州の土木屋さんに就職をするか、鹿児島に帰って建設会社に就職するか、昔からの夢、飲食業の道へ進むか。

というのも、学生時代、モスバーガー以外にも焼き鳥メインの居酒屋のお手伝いも少しだけしていました。やっぱり楽しかったですね。

その頃でも料理好きは変わらなかったのですが、夢はコックさんが変化してきて、ラーメン屋➡︎居酒屋➡︎バーテンダーと変化していき、卒業後はバーテンダーの修行にでようかと思ってました。

なんか蝶ネクタイしてシェーカー振る姿に憧れて、部屋にカクテルキット揃えて後輩に振舞ったりもしてましたね。

前回のお話でモスバーガーで働いていたことをご報告しましたが、実は私、モスバーガーでの態度が良かったらしく正社員としてもスカウトされてました。

でもモスバーガーは盆正月の休みもない仕事なので、さすがにそこは辛いと却下。

モスバーガーで精神を鍛えてもらったのにあっさりと裏切る僕でした。

その後遊びながらもいろいろいろいろ考えて、やっぱり建設業の道へ進もうと決めました。

しかも、せっかく稼業が誰にも真似できない仕事【曳家】の会社となれば、よそで10年修行してる間に曳家職人への道が10年遅れるという現実がありました。

また、たまたま私が卒業を迎える2000年4月は【旧鹿児島県庁舎本館玄関部分曳家工事】という生きてる間に二度と出会えないであろう仕事を弊社で受注していました。

旧鹿児島県庁舎本館玄関部分曳家工事の様子

『このチャンスを逃すと二度とこんな仕事には携われないかもしれない。』

この物件が私の今の曳家人生の物語のスタートでした。

そして鹿児島へ帰り、4月からいよいよ社会人。

これまでのアルバイト時代とは責任が違います。

今までのアルバイトは1日過ごして体は絶好調な夜から出勤。

社会人となってからは、朝7時に出社、現場へ向かい8時から作業開始。夜帰宅するのはなんだかんだで20時ごろ。

当時ラグビーを引退したばかりだったので体力には自信がありましたが、いかんせん学生時代に無責任&自由奔放な生活をしていたせいで朝が弱い。

そして実家住まいだったので社長である親父と同居。

「いつまで寝てんだ!早く起きろ!」と素敵な声で目覚める毎日。

シフト制の仕事とは違い、現場の仕事は「ちょっと調子が悪いので今日のシフト代わってもらいます」ってのがまずありえない。

熱があろうがお腹グルグルだろうが、必ず会社には行きました。

一人が抜けると現場の流れが大きく変わる。

「新人のまだ使い物にならない小僧一人が休んだくらいで」ってのではなく、一人一人きちんと役割があり、その現場に入るみんなで1チーム。

『仕事をして給料をもらう以上はみんなプロフェッショナルでなくてはならない。』

まさにその通りです。

今考えれば、なんて甘ったれた考えで仕事してたんだろうと思います。

毎日仕事から帰ると夕食の時間はその日の仕事の反省会。

素直じゃない僕は自らの意見を尊重し親父とぶつかり合う日々。

でもその中でいろいろ考える機会を与えられ、親父の言ってることが現場で合致したとき、一気に理解度が増しました。

今背負ってる責任に比べれば、当時の小僧一人の責任なんてたかが知れていますが、自分が甘かった以上、これから迎える若い社員たちには仕事をする本当の意義を考えさ、理解してもらえるよう導いていきます。

若い頃って、「自分の主張が正しい!世の中は何もわかっちゃいない!」とかって勘違いしちゃうんですよね。

世の中いくら立場が変わっても、知識や技術を得ても年齢だけは勝てません。自分より先に生まれた先輩には年齢だけは一生勝てません。

今の社会、失われつつある、「年上を敬い、年下の面倒を見る。与えた恩義は水に流せ。受けた恩義は岩に刻め!」の精神を復活させていきたいと思います。

たった22年生きてきて、人生をいっちょまえに語る若者が右葉曲折しながら曳家職人としての道を歩みだした記念すべきミレニアムでした。

つづく

三代目社長のあゆみ 第9話 〜無責任&自由奔放な大学生活(バイト編)~

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なんだかんだでラグビーに明け暮れた大学時代でしたが、ラグビー部以外にも多くの人たちと出会いました。

うちの大学、野球が超強かったんですね。全国選手権優勝するくらい。マジで。

その証拠に多くのプロ野球選手を輩出しています。

もう現役引退しましたがソフトバンクホークスの柴原先輩はじめ、同級生では阪神タイガースドラフト1位の的場寛一。さらに後輩では沖縄が生んだ名投手 新垣渚など。

実は私、ラグビー部より野球部と仲が良く、4年生の頃はほぼ毎日野球部と飲んでましたw

沖縄水産高校のエースで甲子園球児だった与儀くんは卒業してからもずっと親交があり今でも僕が沖縄へ行ったり、彼が鹿児島に来た時は必ず飲みます。

県外の友達ができたのもやはり大学へ行かせてもらったおかげですね。

本当に両親には感謝です。

ラグビー生活と野球部と飲む以外の大学時代の思い出はアルバイト生活ですね。

わたくし、こう見えて、北九州市八幡のモスバーガーで働いておりました。1917398bef925-5826-46b6-b13b-53cae3fd96b0_m

過去の夢として将来コックさんになりたかった僕は、接客大好き飲食大好き。天職でした。

当時アルバイトの中でレギュラー昇格試験というのがあり、簡単な衛生関係の筆記試験と30秒以内にモスバーガーを組み立てる実技試験をクリアすると「レギュラー」の称号を与えられ、時給が上がるシステム。

ハンバーガーを組み立てる際、いかに早く美しく作るか。

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追求した結果、なんと社員レベルの15秒でモスバーガーを組み立てられるようになりました。

仕事を覚えると楽しくなりますね。

また、その当時のモスバーガーの教えが今の仕事にも生きています。

たとえば

1、お客様の満足しない仕事は価値がない

2、理不尽なクレームがあっても、まずは自分達の落ち度を考えよ

3、極端な話、ハンバーガーに髪の毛を自分で入れてクレームを言ってきたお客様に対しても、我々スタッフの髪の毛が混入していた可能性はゼロではない。誠心誠意謝罪をし、お客様が満足していただける手段を考える。

4、他店より値段が高いのには理由がある。細かな材料一つ一つにこだわりがある。だから安売りはしない。

言い回しはちょっと違うかもしれませんがこのようなことを教えられました。もしかしたらうちの店だけの対応だったのかも知れませんが。

この教えは業種は違えど本当に今の仕事に生きています。

モスバーガーで働いていなければ、今の自分はないと思います。

ある日店長に「目の前で髪の毛自分で入れたハンバーガー持ってこられたら、あなたはどういう対応をしますか?」

普通は「いやいや、自分で入れたでしょ?」ってなりますよね?

でもその時の店長が言いました。

『そのお客様の商品に本当に自分達スタッフの髪の毛が入ってなかったと言いきれますか?もし私たちスタッフの髪の毛が入っていて、それに腹を立てたお客様がパフォーマンスで自分の髪の毛を足してきたとき、あなたは原因も調べずにお客様を否定することになるのですよ?可能性がゼロでない以上、まずは不快な気持ちにさせてしまったことを誠心誠意失礼を詫びて、すぐに新しい商品を提供する。

お客様に最高のサービスが提供できていれば、もしくはいつでも最高のサービスが提供できる自信があればどんなことがあっても動じないはずです。』と。

この店長、サービス業の鏡ですね。

この基本方針、お客様は神様精神でクレーム対応を学びました。私自身夜10時からのシフトだったのですが、夜中でも

「さっきドライブスルーで買って家に帰って食べたらハンバーガー冷たいんだけど!」というお客様には新しいのをすぐに作って自宅までお持ちしました。

持って行った時にはまた冷めていて、お客様も「せっかく持ってきてもらったけど冷めてるねwでもありがとう!気持ちが嬉しいよ!」と言ってくださいました。

「ポテトが辛い!」というお客様には薄塩のポテトを自宅まで配達しました。そしたら今度は「薄い!」と言われたり(笑)

何もそこまでしなくても・・・って他の飲食でバイトしていた友達からも言われてましたが、うちの店ではそこは徹底してましたね。

クレームくださったお客様もまさか夜中にバイトがハンバーガー持って自宅まで来るとは思わないでしょうから、びっくりして本部に感謝の手紙を出したりもありましたね。

初動が良かったせいか、大きなクレームはなく、クレームくださったお客様もリピーターで通ってくださるお店でした。

結局、クレームというのはお客様を満足させられなかった時に発生するもの。文句を言われているのではなく、こちらの落ち度を教えていただくものだと考えています。

常にお客様に対して最高のサービスが提供できている自信があれば、どんなことがあっても動じないですね。

モスバーガーの教えが今の自分の基礎となっています。

モスバーガー引野インター店の皆様。ありがとう。

つづく

三代目社長のあゆみ 第8話 〜無責任&自由奔放な大学生活(ラグビー後編)~

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大学入学してラグビー部入部後即レギュラー獲得し、即補欠に転落した私。

理由はいろいろあります。

簡単に言うと、なめてたんです。大学ラグビーを。そして気持ちが入ってなかったんです。
高校では水も飲めず、地獄のような日々を過ごしていたので正直お腹いっぱいだったんですよ。ラグビーに。

そもそも大学ではラグビーではなく、実はアメフトがしたかった!

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そしてドラマのような華のある大学生活を満喫したかった!

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甘かったね。

 

あー、甘かったね。

 

現実は授業もまともに出ず、夕方からのラグビーの練習を終え、バイトに行き、朝方帰ってきてから昼過ぎまで寝て、またラグビーに行く。

THE ぐうたら大学生してました。

毎日パチンコしてラグビして夜は飲んでました。

お父さんお母さんゴメンナサイ。

今思ってもあれほど時間を無駄にした日々はなかったなぁ。。。

あの時今の感性があれば、もっと色んな事やってたなぁ。。。

TIME IS MONEY

時間とお金は失ってから価値に気づく。。。

そんなグウタラ生活の中でもそれなりにラグビーは頑張っておりまして、毎年夏になると大分県の湯の平へ合宿へ行くのですが、その時ほぼ合同合宿と言っていいほど練習と試合をともにしたのが当時九州一部リーグでバリバリの福工大。

その時同じ学年にいたのはなんと

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ラグビートップリーグ 東芝ブレイブルーパス 冨岡鉄平ヘッドコーチ

練習試合でこの人にタックル行ったら見事に吹っ飛ばされたんですけど、その時の衝撃と言ったらですね、ほんとに車に轢かれたかと思いましたよ。

首折れたんじゃないかって思うくらい。全身の骨が「バキバキバキ」ってなりましたもん。

当時からプレーが際立ってましたね。トップリーグ東芝府中へいってキャプテンやってヘッドコーチにもなるのも納得。

そんなこんなで冨岡鉄平ヘッドコーチは毎年鹿児島合宿に来ていた関係もあり、今でも親睦があります。忙しい人ですからね。僕みたいな下っ端とは飲んでくれませんがw

と、また話が逸れましたが、グウタラの割にはラグビーだけは九州学生一部リーグ昇格を目指して一生懸命やってました。

当時は今とは違い、痩せてましたしね。

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僕たちの学年、なんと4人だったんですよ。15人でするスポーツなのに4人。

まさかの4人。されど4人。一年生の時は4人で雑用頑張りました。そのおかげで絆は深かったですね。

1年の時はチーム全体が遊び人の集まりのような感じだったので、口では一部昇格とか言ってましたが、私生活はぐちゃぐちゃw先輩たちに遊びに連れてってもらう毎日をエンジョイしてました。

夜中の1時に「今からラーメン食い行くぜ!5分で準備せろ!」って言われて北九州から博多までラーメン食いに連れて行かれたりw

それでもそこそこ強かったんですよ。練習もまあまあで意外と勝ててたんですよ。

一年生で迎えた初めてのリーグ戦は2位。入れ替え戦で負けて2部残留という成績でした。

2年生になった頃、散々遊び人だったキャプテンが一念発起、真剣にラグビーと向き合い出します。

勝つために体力作りも含め、練習メニューはキツくなり、キャプテンと副キャプテンが今まで散々不真面目だったのに急に真面目になりだしたもんだから、周りの先輩たちとの温度差でいろいろ内部紛争がおきましたw

真剣にラグビーしながらもやっぱり遊びたい人たち。でも次第に真面目に取り組む姿勢に心を打たれてか、チーム全員で真剣に一部昇格にむけて取り組むようになりました。

それでも急に真面目になったからすぐ勝てるか?といえばそうでもなく、結局その年はまたリーグ戦2位、入れ替え戦負け。その翌年も、同じ成績でした。

毎年2位の九共大。自分たちが4年生になった頃、チームの空気は本当に1部昇格を狙いに行っていました。

4年生になってからの自分はスクラムの最前列でスクラムをリードする「フッカー」というポジションを任されており、スクラムリーダーとしてFWをまとめていました。

そんなこんなで最後のリーグ戦、一番の山場となるであろう試合の日です。対戦相手は沖縄国際大学。
これに勝てば残りの試合は間違いなく勝てるという状況だったので、リーグ優勝間違いなし、入れ替え戦は1部の最下位と戦うので勝てるであろうシチュエーション。

やっちゃいました。僕。

試合前日、軽めの練習で早く終わり、時間が余ったもんでパチンコ行ったら勝っちゃって、調子に乗って夜行きつけの居酒屋行ったら飲みすぎて、試合当日寝坊です。

そしてさらに二日酔いの体調不良です。チームメイトからの冷たい視線に心もズタズタです。

そんな心持ちで試合に出ても、うまくいくはずがない。試合中にミス連発。

惜しくも敗れました。。。

そんな迷惑をかけたので当然干されました。次戦はベンチでスタメン出場できないとなり、開き直った僕は試合前夜、反省の色なくベンチ入りしてない後輩を部屋に集めて夜中まで麻雀。

それが試合当日キャプテンに発覚。

同級生のキャプテンから、「お前ふざけんなや。二度と試合出さんからな。」と言われ、素直に謝ればいいものを、

「おう、わかった。」と反省の色なし。心の中で「なんや!偉そうに。」と思ってたんですね。

今思い返してもサイテーですね。自分が恥ずかしい。

我々のチームではキャプテンがメンバーを決めていたので、そんな事情を知らない監督は次の試合で「大城はなんで試合出ないんだ?怪我か?」みたいな。

後輩も「なんで試合出ないんですか?どこか悪いんですか?」

みたいな。

キャプテンに干されたのを認めたくないのと恥ずかしくてみんなに知られたくないのでしれっとしてました。

最終リーグ戦で突然抜けたスクラムリーダー。プロップの相方から「お前が出てくれんとスクラムがまとまらん。キャプテンに謝って戻ってこい」と言われても、変な意地があったんでしょうね。

放置してました。あの時、素直に謝ることができていたら・・・

その後メンバーの怪我やらで試合には出てたのですが、キャプテンとはギクシャクしたまま。

大学ラグビーの最後はなんとも後味の悪いものになってしまいました。

結局リーグ2位で終了、例によって入れ替え戦では惜敗し、2部残留という結果で大学ラグビーは終了。

その翌年、後輩たちが雪辱を晴らしてくれて見事一部リーグ昇格し、今では九州学生リーグのトップに君臨するチームに成長しました。今後の九州共立大の活躍を遠くから祈念しております。

その後キャプテンとも何と無く仲良くはしていたものの、ちゃんと謝ることはできず卒業を迎え、大人になって何年かぶりに飲んだ時、やっと「あの時はすまんかった。負けたのもすべて俺の責任だ」と謝ることができました。

せっかくできた絆を失うのも一瞬。楽しさと悲しさと悔しさの大学ラグビー生活でした。。。

 

つづく

三代目社長のあゆみ 第7話 〜無責任&自由奔放な大学生活(ラグビー前編)~

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話は少しさかのぼり、時期は高校3年生、最後の夏の日の出来事。。。

私は高校卒業後はどこかの土木会社に就職して、土木の修行して、いずれ実家に帰ろうかと思っていたところ、両親より大学進学のすゝめ。

「いやいや、アニキは成績優秀で大学行ったのはわかるけど、俺だよ?勉強嫌いで頭使うより体使う俺だよ?

大学行かなくていいよ。」

だって成績優秀ではなかった私が実力で行ける大学はわずか。

私の成績で受験可能であるとピックアップした学校が

北九州市 九州共立大学

長崎市 長崎総合科学大学

福岡 第一経済大学

鹿児島 第一工業大学

「わざわざ大学いかなくてもねぇ」って思ってた僕に両親の喝!

『親が行かしてやるって言ってるんだから甘んじて受けろ!』

親の愛情にも気づかない、アマちゃんな僕でしたが、せっかくそう言ってもらえるならと無い頭でも何とか入学するために少しでも可能性をと、九州共立大学のラグビーセレクションを夏休み受けました。

当時九州学生2部リーグに所属していた九州共立大学。採用枠はFW・BK合わせて3名。

当時、チームのBKは戦力的に足りていたのでFW2名、BK1名で採用ではないかとの情報あり。

FWの1番募集しているポジションはプロップでした。

ラグビーを知らない方のために簡単にプロップを説明します。maxresdefault

1、スクラム最前列でとにかく体がデカイが良いとされ、スポーツ界では珍しくデブがもてはやされるポジション。

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2、走力やテクニックより体重根性が求められるポジション。

3、不器用でもできるが、スクラムは過酷。

4、スタミナがなくても『まあ、プロップだから』と温かい目で見てもらえるポジション。

5、動けるデブがものすごく試合のキーマンとなりえる場合があり、意外とトライゲッターになれるポジション。

2012 Wallabies v Wales 23.06.2012-Benn Robinson

6、昨年のワールドカップをご覧になった方はお分かりかと思いますが、トップチームになると決してデブではなく、ゴリラを超越したゴツゴツの岩みたいな人がやっているポジション

7、走れるプロップはもはや神

その他プロップ情報募集します。

さて、セレクションの時に受験生のFWの中でプロップ希望受験者がなんと1名しかいませんで、『受かるにはここしかない!』と決意した私。

身長176cm 体重75kg 50m走6秒9 と決してデブでもゴツくもなかった私ですが、高校入学当初がデブで走力が無く、プロップ経験があったのでスクラムは組める自信があったので言いました。

私 『僕、プロップできます。むしろこう見えてプロップです。』

先輩 『えっ?その体でスクラム組めるの?』

私  『組めます。』

先輩 『じゃあ、組んでみて。』

組めましたとも。

ライバルのおデブちゃんは幸いスクラムも弱く、走力、体力無し、パスも放れず。

勝ちました。僕受かりました!ポジション偽装で。

そして晴れて入学した私。

もちろんプロップです。

まあ、大学ラグビーとはいえ2部リーグだろ?と甘く見てました。

大学生ともなると体が一回り大きくなるんですね!

そりゃスクラムが重いのなんのって。

見事に腰を打ち砕かれ、告白しました。

『すいません。実は私、高校一年でプロップ辞めました。今はロックorフランカーです。』

先輩 『はぁ???今更関係ない!メンバー他にいないんだから、お前はプロップだ!』

そうして僕の大学ラグビーはプロップから始まり、そのまま春の九州商業経済大学選手権にて公式戦デビューしました。

九州2部リーグながら意外と強かった九州共立大ラグビー部はトーナメント戦を順調に勝ち進んでいきあれよあれよと決勝戦へ。

相手は当時九州1部リーグの第一経済大学。(元日本経済大学)

私のスクラムの対面の相手は高校からプロップ専門の動けるデブ。

こっちはポジション偽装。

勝てるわけありません。

スクラムを見事に押され続け、試合は敗退。

試合後チーム最凶の鬼のような横暴&理不尽な先輩に頭を叩かれ、

鬼 『お前スクラム弱すぎじゃボケ!それでよくプロップだとか言えるな!』

僕 『いや、だって僕、本職プロップじゃないんですもん・・・』

鬼 『クビ。』

1年生でいきなりレギュラーを獲得し、シーズン半ばで見事な転落。

補欠人生の始まりです。。。 つづく

三代目社長のあゆみ 第6話 〜人生を変えたラグビーとの出会い 2・3年生編〜

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過酷な1年生時代をなんとか乗り越え、いよいよ2年生へ進学。

夢の進学です。

なんてったって練習中に水が飲めるんですもの♡

「なーんだ。水飲めるくらいで」って思ったそこのあなた!水はすごいんですよ?
なんてったってラグビー界では『魔法のやかん』なる伝説が存在し、脳震盪をはじめ、打撲、切り傷、靭帯損傷、場合によっては骨折まで『魔法のやかん』の水を浴びると治ってしまう。

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今思えばみんな極度の脱水症状で、水を飲むだけで元気100倍になってたのかもw

今では信じられないでしょうが、試合中に人が倒れると

『やかーーーーーーん!!!』という掛け声とともに一年生やマネージャーが金色のやかんを持ってグランドに走って行ってました。

 

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やかんで全て解決する。そんな時代ですw

さて話が逸れましたが、1年生とは違い2年生になるとそこそこ実力の差が現れ出し、上級生とのレギュラー争いが始まります。

縦社会の厳しいラグビー部の世界でも試合となると別。実力社会です。

プレーの際立つものはポジションを勝ち取り、先輩でも実力のないものは蹴落とされます。

自分で努力した分だけ成果が生まれる過酷な世界です。

上級生だからといって必ず試合に出れるわけではない。でも立場は先輩。思春期の高校生にはなかなか受け入れがたい事実も多々ありましたね。そんな私は2年生でレギュラー争いに絡んでないので無縁でしたが・・・

今思えば2年生の時の努力は圧倒的に足りなかったと思います。

どうせ3年生には勝てないから、来年頑張ろうって怠け心もありました。気持ちでまず諦めてましたね。

そんな私もいよいよ3年生になり、待望のレギュラー獲得!

今まで見てきた同じポジションの先輩たちのような華やかなプレーを・・・

そんな簡単にはできません。現実は甘くない。

私たちの代は、先輩たちと違い圧倒的なスター選手がいませんでした。それに加えてみんなの実力が他校よりは平均的に優れているとはいえ、全てが中途半端。

1・2年生大会も含め鹿児島県内の大会で一度も優勝することができませんでした。3年生春の新人戦でも決勝で鹿実に敗れ、2位グループで九州大会に出場したものの一回戦負け。

先輩たちのような常勝軍団にはなれませんでした。

そんな弱気なムードも吹き飛ばさねばと挑んだ自分たちの代で鹿児島初の3連覇のかかった花園予選決勝。

前半からゲームを支配され、思ったような攻撃ができず、気がつけば19-10のスコアで宿敵鹿実に敗れ、花園を逃しました。

やはり春の高校総体予選決勝でも負けていたため『我々は勝てるんだろうか?』と弱気な雰囲気も持っていました。

やる前から諦めていたような空気感があったのは事実です。

今でも「あの時もう少し努力しておけば。あの決勝でもっと死ぬ気で頑張れば」と悔やむことがあります。

今、社会人になり、経営者になって実感した事。

『どんな状況でも最善を尽くし、やり遂げなければならない。』

『やると決めたことは言い訳せずにとことんやらなければならない。』

『死ぬ気でやっても死にはしないんだから、死ぬ気でやるべきだ!』

後から『あの時ああすればよかった、こうすればよかった』と思うのは人間の性。

それをちょっとでも少なく、後悔なく生きるのは難しいが目指さなければいけない事ですよね?

私はラグビーを通して多くの事を学びました。

ONE FOR ALL! ALL FOR ONE!

一人はみんなのために、みんなは一人のために。

時には自分を犠牲にしてでも仲間を助ける!

そして仲間を信頼する!

多くの仲間を授けてくれたラグビーに感謝です。

そんな仲間達と今でも遠慮なく、人権なく、品もなくバカやって楽しく飲めるのは心から信頼し合っているからです。

現代社会で失われがちな『人を信頼する』という事を思い出させてくれます。

今でも同級生だけではなく、直接関わりのなかった先輩や後輩も同じ鹿児島工業高校ラグビー部OBということで繋がりを持っています。

これからもラグビーで学んだ事を人生に生かし、精進していきます!

つづく

三代目社長のあゆみ 第5話 〜人生を変えたラグビーとの出会い 1年生編〜

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さて、なんとか努力も実り、鹿児島工業高校へ入学しました私。

鹿工に入ったからには花園目指さねば!と意気込んでラグビー部へ。

正直なめてました。

ラグビーとは軽やかに走り、男らしくぶつかり合う!

カッコイイ事しか見てませんでした。

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が、しかし!現実は

『痛い・キツイ・臭い』

3拍子揃っています。

こんなに過酷なスポーツが世の中にあったのかと思うくらいでした。

とは言っても入部当初からボールが触れるわけでもなく、まず1年生は基礎体力作り。

5km走る→筋トレ→3km走る→筋トレ→声だし&玉拾い

この練習メニューを毎日休みなく約3ヶ月。

入部当初30人を超えていた新入部員は夏には半分まで激減。

私も飯が食えないくらい衰弱し、72キロのポッチャリさんが65キロのスマートさんに変身!

何度もやめようかと・・・

ほんとに毎日溜息しか出ませんでした。

が、しかし、何のために鹿工へ来たのか!

みんなキツイのを乗り越えて頑張ってる!

ここで負けてたまるか!と奮闘し、何とか続ける事ができました。

私の人生において未だかつて高校1年生の時よりきつかった記憶はございません。

もし人生をやり直してまたラグビーをするとしても高校2年からがいいです(笑)

そうして今までの甘っちょろい15年間の人生をコテンパンに打ち砕かれ、新たな鹿工ラグビー部員としての人生が始まりました。

当時の我が鹿工ラグビー部は鹿児島県では鹿実と2強時代を築いており、1年生、2年生の時は花園連続出場を果たしていました。

私はもちろん補欠でしたが。

自分が1年生の時の3年生の先輩たちは、本当に同じ高校生か?と思うくらい気合も筋肉も発達していました。入学当初の15歳と2年間の荒波にもまれた17歳の2年の違いは凄まじいものがあります。

神の3年生、平民の2年生、奴隷の1年生。

練習時は「水を飲んだら体力がなくなる。練習中は水を飲んではいけない」という、今では都市伝説のような教えが疑いもなく信じられていた時代です。

練習中に水を飲むのが許されるのは2年生以上。あの時初めて「人間、限界だと言えるうちは限界じゃない。」ということに気付かされました。本当に限界を迎えた人間は「限界です!」とか、「もう無理です!」とか言えません。

本当に限界を迎えた人間は、黙って倒れます。。。

水が飲めないのに走らされ、喉がひっつくあの感覚。今でも忘れられません。

あの時は流れる便所の水でさえ飲みたいくらい追い込まれてましたね。水たまりの水はコーヒ牛乳ではなく、ただの苦い水ですw(飲んだ人の経験談)

これはラグビー部だけではなく、他の部活にも共通して持たれていた共通認識でした。

気合と根性があればなんとかなる!っていう時代。

人生後にも先にもあれほど過酷な時期はありませんでした。

そのおかげで多少の試練ではビクともしません。動じません。

逆に少々のことでヘコタレる人とは今でも仲良くなれませんw

今の自分につながる精神力を培った大切な1年間でした。

つづく

三代目社長のあゆみ 第4話 〜遊びに夢中な中学生時代〜

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だらだらと書き綴っているこのシリーズ、第4話は中学編です。
ちょっと話が前後しますが、実は私、3歳から少林寺流空手道 錬心舘 荒田道場で空手を学んでおりました。

当時一緒に鍛錬していたのが伝説の小説『マンドリル刑事』の著者で今や中山の繁盛店『居酒屋むらおか』の2代目村岡秀樹です。

幻の小説【マンドリル刑事】について詳しく聞きたい方は中山バイパス沿いの【居酒屋むらおか】で店員に「マンドリル」と言ってみてください。きっと伝わります。

さて、話を戻しますが、空手と言っても極真のようなフルコンタクトではなく、精神鍛錬メインの型の部でした。

錬心舘では、初代宗家【保 勇先生】の教えにより、体が成熟するまでは組手はするべきではない!基礎があっての組手だ!ということで、組手ができるのは高校生から。中学生までは型の鍛錬を重ねていました。

小学校2年生で初めて全国大会に出場以来、中学校1年生の夏でやめるまで6年連続全国ベスト8という成績を収めましたが、当時荒田道場は全国覇者や2位、3位の選手がゴロゴロいたレベルの高い道場でしたので私は中の上レベルでした。

小学生時代は空手に打ち込む日々でしたが、ある日テレビドラマでスクールウォーズを見ることになります。「泣き虫先生」の滝沢監督や

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「川浜一のワル」と恐れられた大木大助、梅宮達夫の男気に憧れた私は

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『よし!高校生になったらラグビーをやろう!』と決意。

また、当時従兄弟が鹿児島工業高校でラグビーをしていて、試合を生で見る機会もあり気持ちは空手からラグビーへ。

当時ラグビーに興味を持った私のために母が少年ラグビースクールを探してくれて、鹿児島でも小学生のラグビーがあるとわかり、少しだけラグビーをかじったりもしました。

少年ラグビーは楽しかったのですが、空手とラグビーの2足のわらじ、ましてラグビーは日曜の朝から練習で、三度の飯よりラーメンと睡眠が好きな私は日曜日に早起きできずあえなく退部。再び空手のみの日々へとなりました。

中学生にもなるとさすがに10年近くやってきた空手に飽きがきたのと、毎年ベスト8でそれ以上の向上心が芽生えなかったのでどうせなら高校ラグビーに向けてキック力や走力をつけなきゃいかんとサッカー部へ入部。

中学校1年生の夏に空手からサッカー部へとシフトしました。

が、不器用な私はリフティング最高記録27回。

小学生以下です。

サッカーは遊びでやるには楽しいですが、部活となるとどうも楽しくない。

そりゃ当然です。部活ですもの。

1年生の終わりに腕を骨折し(サッカーじゃなくてゲーセンのパンチングマシーンでw)、それを理由に練習を休み、いつしか幽霊部員と化しました。

その当時、悪友たちとハマってしまったのがスケボー。

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日々サッカー部を横目に市民文化ホールや今とは形状が大きく違う共研公園、出来たばっかりのテンパークでスケボーと戯れる日々。

毎日をいかに楽しく生きるかに必死でしたね。

その当時、他の学校のいろんな人と知り合い、今でもテンパークで現役スケーターとして神とあがめられる教祖様 のような先輩など多くの人たちと仲良くなりました。いまでも当時の仲間は付き合いがあります。

その頃はとにかく遊びに夢中。将来の夢だとか現実問題からは遠ざかっていました。

が、やはり小遣い稼ぎにと日曜や祭日には置き場の片づけや現場の片づけに行っては曳家と過ごす日々も送っていました。

そうやって定期的に現場の空気に触れていたことも今の自分につながっているのかもしれません。

中2までは必死で毎日遊び呆けていましたが、3年生ともなると部活も夏までで最後、さらにその後は受験という現実が押し寄せてきます。一応サッカー部には復帰してました。。。

高校でラグビーをやるとは決めていたものの、当時全国大会を狙える学校は鹿児島工業高校か鹿実も2強時代でした。

当時の学力ではちゃんと受験勉強しないと鹿児島工業には合格できないレベル。

受験勉強して鹿工か?はたまた親父と兄貴の後を追って鹿実か?料理人をめざして城西高校の調理科か?

三択で悩みましたところ、親との家族会議。

『自分の将来は自分で決めなさい。好きにしなさい』と両親。

『じゃあ、城西の調理科に行って料理人になりたい!』と僕。

意外な答えに戸惑う両親。。。

『なぜ城西高校よ!ラグビーなら鹿工か鹿実だろ!』と兄。

最終的に『これからは土木の時代だ!やっぱり土木科に行きなさい』と父。

『じゃあ勉強面倒だから鹿実でいいや。』と僕。

『お兄ちゃんが大学とかでお金かかるんだから公立にしなさい!ちゃんと勉強して鹿工に行きなさい!』と母。

『好きなことしていいんじゃなかったの?結局好きな道選べないじゃん。』と心の叫び。

さらに

『将来自分の店を持ちたいなら建設業で地位を築いてからでも遅くは無いぞ。建設業の道を歩みつつ、生活が安定してからサイドビジネスで飲食店をする方法もある。なんだかんだでお前は建設業だ!』とあっさりレールを敷かれ、そこから猛勉強の末、晴れて鹿児島工業高校へ入学しました。

結局なるべくしてなった今の職業であったのでしょう。

中学校時代は良くも悪くもたくさんの思い出とたくさんの仲間ができた3年間でした。

つづく